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八洲(やしま)団地、向陽台団地は、隣接する桜ヶ丘団地とはつながっておらず、バスは、同じ道を出入りする。
団地造成から長いことバスの乗り入れがなく、住民はバス利用を想定しないでここに住み始めたのだろうと思う。
一方で、団地の入口を長く走ってきた市営バス17番線は利用者が少なく、採算面で厳しい状況だった。
団地にバスが乗り入れようになった今も、もともとバス利用を考えていなかった住民には、バスが選択肢に入らないのか、利用者は多くないようだ。それでも、団地を循環して始発の脇田電停に戻り、終点の広木農協前まで運行しない便が設定され、おかげで便数が確保された。
もっと利用者が伸びてもいいのにと思うけれど、定期利用にはなかなか結び付かないようだ。
震度7が2回。
熊本地震から10年。
鹿児島でも震度5だったあの地震。
夜に幾度となく鳴り響いた緊急地震速報のアラームがトラウマになった。
鹿児島では目立った被害はなかったが、熊本は時間が経過しても、なかなか建物にかけられたブルーシートが減らなかった。
家を失った被災者のために仮設住宅が各地に建設され、その中でも最大規模の益城町「テクノ団地」は、町の中心部から離れていたこともあって、バス路線が新設された。
本職の方でも、被災地熊本には何度となく通った。記録に残そうと、機会あるごとに撮影したつもりだったけど、バスの写真は意外なほど少ない。
ただ、地震後まもなく向かった熊本で、いつも通りに走ってきた路線バスの姿に「日常」をみて、心が落ち着いたのが印象に残っている。
与論島を一周する路線バス。
初めて与論島を訪れた2002年の夏、出迎えてくれたのは中型バスだった。
真夏の炎天下、南の島。じっとしているだけで汗ばむような気温でも、バスは窓を開けて走り、クーラーを入れる素振りも見せなかった。
「お客さんがいないのに、クーラーなんてもったいない。走れば風が入ってくるでしょう、十分涼しいから。」
笑いながらそう言った乗務員氏は、バスで島を一周した私が、逆回りにもう1周乗ると言うと、
「バス代がもったいない。バスと反対周りに歩いて行ったら、途中で拾ってあげるよ」
と言いつつ、さらに、(車庫にいるバスを見ながら)これでバスは全部ですか?と尋ねる私に、
「1台工場に修理に入ってて、歩いて行ったら途中にいると思うから、写真撮るなら、行ってみたらいいよ。それに廃車のバスも置いてあるし。」
そうして、車庫のバス、工場のバス、廃車のバスを全部撮ることができ、島を逆回りに走って向かい側からやってきたバスがこの写真。
実は、工場に入っていたマイクロバスが通常使用の路線バスで、中型バスが珍しく代車で走ったその日を引き当てたことを知ったのは、後になってからだった。
私が初めて市営バスの21番線に乗ったのは1998年のこと。
いつでも乗れると思っていたら、そのまま大人になってしまい、
区画整理で公民館が建って、いよいよこのあたりの風景が変わり
始めるかもと思ったのがきっかけだったような気がする。
21番線の中で、謎に思っていたことがあって、それは「原良小西門前」バス停の位置。
ちっとも「前」じゃない場所にあるこのバス停がどうしてこの名前なのか、
ずっと経緯を知りたいと思っていたところ、先日のブログのコメントで、
実は路線開設当初、バスの経路が違っていて、西門前バス停は、本当に
門の前にあったと教えていただいた。
花岡通バス停から原良小西門前を通って真っ直ぐ抜けるのが永吉町への
素直な近道だし、なるほどそっちのほうが自然なルート設定だろう。
それが、わずか1年ほどで経路変更になったのは、おそらくそうせざる
を得ない理由があったに違いない。
もはや、想像でしかないけれど、原良小学校一帯はもともと低湿地で
地盤が弱く、大型バスが走ると、沿線の建物はそのたび大きく揺れた
のではないだろうか。
道路幅は変更後の山手線と大して変わらなかった気がする。
区画整理前の原良小西門前。このあたりの風景は、変わってしまう前に
歩いて写真に残しておいた。ここをバスが走っていた時期があったのか。
かつて走っていた原良山手線。
てっきりこの通りをバスは走っていたものとばかり思っていたが、
もっと歴史を深掘りしてみたくなった。
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