沖永良部バス企業団は、島の南部の知名に営業所を持ち、主要な車庫も併設されている。
初めて訪問した2002年当時、島を走るバスはいすゞ車ばかり。
2つの町が共同で運営する「公営バス」ながら、シャーシが限定されるのは、島ならではの特殊な事情があったのかどうかわからないが、島ごとに走るバスのシャーシがほぼ限定されるのは興味深かった。例えば、与論島は日野、徳之島は三菱ふそう、加計呂麻島は日産というように。
実車で走るバスがいすゞで揃っている上に、さらに驚いたのは、営業所の裏手に残されていた廃車体もいすゞ車だったこと。
調べてみると、沖永良部のバスの歴史は、その草創期からいすゞ車の歴史だったらしい。
写真誌、「奄美の昭和」(樹林舎)に、昭和31年に沖永良部でバス事業が始まった当時の写真が掲載されている。
これも、近くを走る友人から、「なんかいる」と情報をいただいて、探しに行った記憶がある。
調べると、644-6928、「元鹿児島22き・605」。
http://busforumkagoshima.on.coocan.jp/register/22ki/0700/0605.html
いろいろと疑問点はあるものの、どうやら、1990年の山鹿~熊本空港線に使われていたらしく、宮崎支店を経由して、鹿児島入り。
鹿児島では、桜島定期観光で使用され、最終的にここにやってきたらしい。
国鉄末期に貸切強化のために導入されたハイデッカーのうちの1台だが、一般的な独立懸架ではなく、路線バスと同じ車軸式のエアサスを装備し、ヘッドライトも丸形4灯。
民間他社に遠慮してこの仕様になったのか、はたまた、予算が不足していたのかわからないが、「いかにも」国鉄の貸切バスだと感じたものだった。
2002年11月撮影 末吉町南之郷
岳車庫にいたミニふそう(MR520)のことは先日触れた。
その後、同じ場所に置き換えられたのが「特急バス」
このバスは、鹿児島~上川内間の特急バス用に新車投入され、国道3号を快走した。
エアサスをおごり、エアコンも完備、座席はリクライニング。
今では信じられないかもしれないが、30分ごとに特急と急行が交互運転。
それが満席で続行便が出るほどだった。
当時の国鉄鹿児島本線は、電化はされても電車化されたのは特急のみ。
電気機関車がけん引する旧型客車が、まさに何も変わらず走っていた。
ただ、このバス、乗務員によれば「さっぱり走らなかった」らしい。
そもそも、定期路線車と同じシャーシに、エンジン。重たい座席とボディを載せて、今思えばさもありなん。
私は、このバスで鹿児島~川内間を何度か往復した。思い出の車両だが、もう、どこにも残っていないようだ。
ここまで、廃車体の写真は「ネガ」から出してきた。
デジカメに移るにあたって、ほかのテーマも交えながら、ブログを進めていこうと思う。
そういうわけで、今後とも引き続きよろしくお願いします。
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