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鹿児島のバスの歴史

2026年6月 3日 (水)

新型セレガ納車前

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まず、表に出ることのない納車前の写真。
撮影日はちょうど20年前の今日。2006年6月3日。
2台のバスは、南国交通のエアポートシャトルとしてこの後まもなくデビューした。
ナンバーで言えば鹿児島200か「580」と「581」
定期運行される「乗合」バスとしては、初めての新型セレガで、見慣れないデザインに違和感を感じつつ、カメラを向けたのを思い出す。
今やおなじみになったデザインだが、当時は撮影の角度によって不格好に写るのがどうにも難しく、撮影は試行錯誤の連続だった。

あれから20年もたったのか。セレガRもすべて車齢20年以上になったのか。
なんだか感慨深い。

2026年4月 2日 (木)

永吉線のはじまりの頃

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私が初めて市営バスの21番線に乗ったのは1998年のこと。
いつでも乗れると思っていたら、そのまま大人になってしまい、
区画整理で公民館が建って、いよいよこのあたりの風景が変わり
始めるかもと思ったのがきっかけだったような気がする。

21番線の中で、謎に思っていたことがあって、それは「原良小西門前」バス停の位置。

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ちっとも「前」じゃない場所にあるこのバス停がどうしてこの名前なのか、
ずっと経緯を知りたいと思っていたところ、先日のブログのコメントで、
実は路線開設当初、バスの経路が違っていて、西門前バス停は、本当に
門の前にあったと教えていただいた。

花岡通バス停から原良小西門前を通って真っ直ぐ抜けるのが永吉町への
素直な近道だし、なるほどそっちのほうが自然なルート設定だろう。
それが、わずか1年ほどで経路変更になったのは、おそらくそうせざる
を得ない理由があったに違いない。
もはや、想像でしかないけれど、原良小学校一帯はもともと低湿地で
地盤が弱く、大型バスが走ると、沿線の建物はそのたび大きく揺れた
のではないだろうか。
道路幅は変更後の山手線と大して変わらなかった気がする。

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区画整理前の原良小西門前。このあたりの風景は、変わってしまう前に
歩いて写真に残しておいた。ここをバスが走っていた時期があったのか。

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かつて走っていた原良山手線。
てっきりこの通りをバスは走っていたものとばかり思っていたが、
もっと歴史を深掘りしてみたくなった。

2025年12月15日 (月)

皷川

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かつて、市営バス旧6番線が走っていた皷川。
路線移譲を経て、現在は南国交通の単独路線となっている。
あまり、目立つことのない、一般的な途中停留所だが、市営バス路線の歴史を調べていくと、ここが折り返しの終点だった時期があることがわかる。当時は大型バスが走るにはたいへん狭い道で、皷川線のダイヤが回ってくるのが嫌だったといった、乗務員の心の声が記録として残されている。
同じように無くなってしまった市営バスの旧2番線は、その昔「皷川常盤線」と名前がついていた。後に「清水常盤線」に改称されたが、通らなくなった「鼓川」の名称がそのままになっていたのは、かつての名残だったのだろう。
道路が狭くて、クルマが停められず、いつも後回しにしていた結果、ここでバスは撮っていない。
手元にあるのは、雪の日に、何気なく撮ったバス停の写真だけ。
それでも、筆文字のバス停は今は無く、図らずも道路が狭かった当時の貴重な記録になった。

2025年2月14日 (金)

山形屋バスセンター

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山形屋バスセンターは一方通行。
バスは、電車通りから左折でバスセンターに入り、
出場は右折で裏通りに出て、朝日通に抜ける。
当たり前だったバスの動きも、無くなってしまうと懐かしい。
こんなところを頻繁にバスが走っていたのかと、今となっては信じられないような気もする。

2023年8月23日 (水)

田上町郷土誌

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昨日の原良小学校に続いて、今日は田上小学校発行の郷土誌。

こちらはあいにく禁帯出で、図書館でコピーを取らせてもらった。

それにしても、編集年代が昭和41年度と古く、紫原線はこの年運行開始したばかり。
市営バスの田上の終点は、当時寺之下。今でも広い踏切前の広場でバスが転回していた様子の写真が貴重だ。
南鉄バスの中山線(のちの鹿児島交通11番線)が、昭和11年からここを走っていたのも、これで明らかになった。

2023年8月22日 (火)

郷土はらら

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妻の実家で見かけた小学校作成の校区の歴史をまとめた小冊子。
初見では、その中身まではしっかり確認しなかったが、路線バスの歴史を調べていく中で、あらためて、その存在を思い出した。
義父は、私の趣味のことを快く思っていないこともあり、わざわざ借りに行くのを躊躇していたところ、県立図書館にその冊子があることに気がついた。これはチャンス!とばかりに早速借りてきた。
鹿児島県をはじめ、県内市町村はそれぞれ郷土史をまとめているが、ほかに、歴史の長い小学校は、周年事業で校区内の歴史をまとめて本にすることがあるらしい。引用のページは、原良小学校の創立25周年記念誌から。さすがに詳しいし、小学生向けだからわかりやすい。
原良小学校以外にもこうした冊子があるのを確認している。また、学校図書館や公民館図書館には、地域の歴史を詳しく記した冊子が案外しっかり保管されているかもしれない。路線バスの歴史を調べるには、心強い資料だ。

2023年8月17日 (木)

国鉄自動車道整備事業

吉田町郷土誌に興味深い記述がある。以下引用

「この県道の開通には、吉田村に荒落、郡山村に永山という難工事区間を抱え、乏しい村財政では、何十年かかるか分からない、開削上最大のネックとなっていた。当時、郡山村には国分友睦氏というこれまた名物村長があり、九州全体の国鉄自動車道整備協力会長であった。その縁で「国鉄自動車道整備事業」というのがあり、国鉄バスが走っている路線の整備工事には補助金が貰えることを知ったのである。
これに眼をつけた両村は、牛車も通りかねる山道を国鉄バスが走ることにして、郡山・蒲生間にバス路線権を獲得しようとした。不法ともいえるたいへんな政治工作であるが、これには国鉄と県に目をつむって貰わなければならない。当局を動かすために門司鉄道局と県庁道路課への陳情があいついだ。
山下村長は連日県庁に入り浸った。こんな陳情が数年続いて熱意は遂に県と国鉄を動かした。国鉄と県当局の腹芸によって昭和三十三年、蒲生・伊集院線は郡山、吉田両方面とも国鉄自動車道整備事業として県営で発注され、翌年三月工事完了と共に多年待望の県道は開通して国鉄バスが走ることになった。」

永山口~都迫~桑之丸間の県道は、今でこそよく整備されて、空港へのバイパスとしての機能も十分に果たしている状況となっているが、もとはといえば、国鉄自動車道整備事業として国費で整備されたというではないか。
気になったのが、この道路整備補助は、国鉄バスが走る道路では、各地で活用されていたのではないかということ。国鉄バスが走る道路は、どこでも並行の民間バス路線があり、そちらの方が幹線道路だったりするのに、国鉄バスの走る道も意外と整備されていた。そう思ってみると、山川線や宮林線など、それらしい区間が思い当たる。実際どうだったのだろう。

2023年7月31日 (月)

青バスの買収

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林田熊一伝から引用。
図書館からまとめて資料を借りてきて、その分析。
市電と青バスが競合して、結果的には市が青バスを買収した。
それは、交通局の年誌から確認できていたが、今回、市とは逆の立場からその記述を確認できた。
林田氏は、当時、青バスの専務で、市の買収について会社を説得したとある。ほかには、林田氏が、この買収話をまとめたことで、市営バスの基礎を作ったという記録もある。たしかに、そういう面もあるのだろうけれど、市側の記述では、そこまで前向きな印象を受けなかったから、それぞれの立場の違いなのだろう。

ところで、市長が買収の契約を締結したのが、青バスの社長ではなく、専務だったということに私は注目する。
当時林田氏は41歳。それだけの実力者で、信頼関係もあったのだろう。

2023年7月25日 (火)

戦前の林田バスの路線拡大

昭和36(1961)年発行、林田熊一伝の巻末に年表があり、熊一翁の生涯が年表にまとめられている。
本文やその年表から、戦前の路線拡大について、書き出してみたいと思う。とにかく、「九州のバス王」は伊達ではない。

大正7(1918)年 宮之城~川内
大正8(1919)年 川内~阿久根
大正9(1920)年 鹿児島~都城・志布志
昭和3(1928)年 別府~亀川~杵築
昭和5(1930)年 鹿児島~郡山~宮之城、鹿児島~谷山(鹿児島乗合自動車=青バス)
昭和6(1931)年 (朝鮮)咸興~興南
昭和7(1932)年 熊本~鹿本、熊本~八代
昭和10(1935)年 南郷自動車、雲仙小浜自動車
昭和11(1936)年 南国交通
昭和12(1937)年 都城自動車
昭和15(1940)年 延岡バス
昭和16(1941)年 戦時下で路線縮小 鹿児島~霧島・川内・宮之城のみ運行
昭和20(1945)年 鹿児島営業所空襲で被災。バス20台全車両被災。川内営業所配置の1台のみ残存。

昭和10年以降の路線詳細が分からないのがもどかしいが、個人経営で1年以内で消えていくようなバス路線が多かった大正時代にバス事業を軌道に乗せ、別府や雲仙などの著名な観光地を走るバスを経営し、さらに長崎県営バスと競合していたと記されているから、バスの黎明期において、林田氏抜きではバス事業を何ら語れないほどのたいへんな功績を残されている。

昭和11年に南国交通(株)の取締役になっているが、これは、タクシー会社だったのではないかと想像する。
南国交通60周年記念誌によると、上野喜左衛門氏が「北薩自動車(株)」として、バス事業を始めたのが昭和15年。昭和19年に鹿児島合同タクシー(株)(社長は林田氏)を合併し、南国交通株式会社と商号変更となったとされている。
なお、林田氏は、昭和22年まで南国交通(株)の取締役だったようだ。

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写真は、手元にある最も古い時代の林田バス。定員11名とあるから、間違いなく「バス」である。

2023年7月24日 (月)

戦前の国分のバス

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昭和48(1973)年発行の国分郷土誌から引用。
昭和10年に開業した省営バス(のちの国鉄バス→JR九州バス)は山川、加治木線と、国分線。これらをまずは知りたいと思い、旧国分市の郷土史を借りてきた。
どうやら、国分におけるバスの運行は大正14年に始まったようで、昭和に入ってから林田バスの運行に移行している。
省営バスに関して言えば、まずは隼人~国分~古江間が開通したとあり、古江線(のちの大隅線)の先行の役割があったことがわかる。
枝線に関しても詳しく記述されていて、浜之市循環が昭和11年、桜島への乗り入れも、旧桜島町の記述の通り、昭和19年に始まったようだ。

林田バスや三州バス(のちの鹿児島交通)に関する記述が少ないのは、文献が乏しかったのだろう。ただ、国分郷土誌には、参考文献が詳しく記してあるのが目に留まる。昭和15年発行の「隼人」という本に、汽車、バス、客馬車の料金表があると書かれているから、探せば出てくるかもしれない。また、「国分省営自動車」という本もあるらしい。省営バスのことが詳しいのは、そのおかげだろう。果たして、これらの文献も見てみたくなったが、現存するのだろうか。

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