妻の実家で見かけた小学校作成の校区の歴史をまとめた小冊子。
初見では、その中身まではしっかり確認しなかったが、路線バスの歴史を調べていく中で、あらためて、その存在を思い出した。
義父は、私の趣味のことを快く思っていないこともあり、わざわざ借りに行くのを躊躇していたところ、県立図書館にその冊子があることに気がついた。これはチャンス!とばかりに早速借りてきた。
鹿児島県をはじめ、県内市町村はそれぞれ郷土史をまとめているが、ほかに、歴史の長い小学校は、周年事業で校区内の歴史をまとめて本にすることがあるらしい。引用のページは、原良小学校の創立25周年記念誌から。さすがに詳しいし、小学生向けだからわかりやすい。
原良小学校以外にもこうした冊子があるのを確認している。また、学校図書館や公民館図書館には、地域の歴史を詳しく記した冊子が案外しっかり保管されているかもしれない。路線バスの歴史を調べるには、心強い資料だ。
吉田町郷土誌に興味深い記述がある。以下引用
「この県道の開通には、吉田村に荒落、郡山村に永山という難工事区間を抱え、乏しい村財政では、何十年かかるか分からない、開削上最大のネックとなっていた。当時、郡山村には国分友睦氏というこれまた名物村長があり、九州全体の国鉄自動車道整備協力会長であった。その縁で「国鉄自動車道整備事業」というのがあり、国鉄バスが走っている路線の整備工事には補助金が貰えることを知ったのである。
これに眼をつけた両村は、牛車も通りかねる山道を国鉄バスが走ることにして、郡山・蒲生間にバス路線権を獲得しようとした。不法ともいえるたいへんな政治工作であるが、これには国鉄と県に目をつむって貰わなければならない。当局を動かすために門司鉄道局と県庁道路課への陳情があいついだ。
山下村長は連日県庁に入り浸った。こんな陳情が数年続いて熱意は遂に県と国鉄を動かした。国鉄と県当局の腹芸によって昭和三十三年、蒲生・伊集院線は郡山、吉田両方面とも国鉄自動車道整備事業として県営で発注され、翌年三月工事完了と共に多年待望の県道は開通して国鉄バスが走ることになった。」
永山口~都迫~桑之丸間の県道は、今でこそよく整備されて、空港へのバイパスとしての機能も十分に果たしている状況となっているが、もとはといえば、国鉄自動車道整備事業として国費で整備されたというではないか。
気になったのが、この道路整備補助は、国鉄バスが走る道路では、各地で活用されていたのではないかということ。国鉄バスが走る道路は、どこでも並行の民間バス路線があり、そちらの方が幹線道路だったりするのに、国鉄バスの走る道も意外と整備されていた。そう思ってみると、山川線や宮林線など、それらしい区間が思い当たる。実際どうだったのだろう。
林田熊一伝から引用。
図書館からまとめて資料を借りてきて、その分析。
市電と青バスが競合して、結果的には市が青バスを買収した。
それは、交通局の年誌から確認できていたが、今回、市とは逆の立場からその記述を確認できた。
林田氏は、当時、青バスの専務で、市の買収について会社を説得したとある。ほかには、林田氏が、この買収話をまとめたことで、市営バスの基礎を作ったという記録もある。たしかに、そういう面もあるのだろうけれど、市側の記述では、そこまで前向きな印象を受けなかったから、それぞれの立場の違いなのだろう。
ところで、市長が買収の契約を締結したのが、青バスの社長ではなく、専務だったということに私は注目する。
当時林田氏は41歳。それだけの実力者で、信頼関係もあったのだろう。
昭和36(1961)年発行、林田熊一伝の巻末に年表があり、熊一翁の生涯が年表にまとめられている。
本文やその年表から、戦前の路線拡大について、書き出してみたいと思う。とにかく、「九州のバス王」は伊達ではない。
大正7(1918)年 宮之城~川内
大正8(1919)年 川内~阿久根
大正9(1920)年 鹿児島~都城・志布志
昭和3(1928)年 別府~亀川~杵築
昭和5(1930)年 鹿児島~郡山~宮之城、鹿児島~谷山(鹿児島乗合自動車=青バス)
昭和6(1931)年 (朝鮮)咸興~興南
昭和7(1932)年 熊本~鹿本、熊本~八代
昭和10(1935)年 南郷自動車、雲仙小浜自動車
昭和11(1936)年 南国交通
昭和12(1937)年 都城自動車
昭和15(1940)年 延岡バス
昭和16(1941)年 戦時下で路線縮小 鹿児島~霧島・川内・宮之城のみ運行
昭和20(1945)年 鹿児島営業所空襲で被災。バス20台全車両被災。川内営業所配置の1台のみ残存。
昭和10年以降の路線詳細が分からないのがもどかしいが、個人経営で1年以内で消えていくようなバス路線が多かった大正時代にバス事業を軌道に乗せ、別府や雲仙などの著名な観光地を走るバスを経営し、さらに長崎県営バスと競合していたと記されているから、バスの黎明期において、林田氏抜きではバス事業を何ら語れないほどのたいへんな功績を残されている。
昭和11年に南国交通(株)の取締役になっているが、これは、タクシー会社だったのではないかと想像する。
南国交通60周年記念誌によると、上野喜左衛門氏が「北薩自動車(株)」として、バス事業を始めたのが昭和15年。昭和19年に鹿児島合同タクシー(株)(社長は林田氏)を合併し、南国交通株式会社と商号変更となったとされている。
なお、林田氏は、昭和22年まで南国交通(株)の取締役だったようだ。
写真は、手元にある最も古い時代の林田バス。定員11名とあるから、間違いなく「バス」である。
昭和48(1973)年発行の国分郷土誌から引用。
昭和10年に開業した省営バス(のちの国鉄バス→JR九州バス)は山川、加治木線と、国分線。これらをまずは知りたいと思い、旧国分市の郷土史を借りてきた。
どうやら、国分におけるバスの運行は大正14年に始まったようで、昭和に入ってから林田バスの運行に移行している。
省営バスに関して言えば、まずは隼人~国分~古江間が開通したとあり、古江線(のちの大隅線)の先行の役割があったことがわかる。
枝線に関しても詳しく記述されていて、浜之市循環が昭和11年、桜島への乗り入れも、旧桜島町の記述の通り、昭和19年に始まったようだ。
林田バスや三州バス(のちの鹿児島交通)に関する記述が少ないのは、文献が乏しかったのだろう。ただ、国分郷土誌には、参考文献が詳しく記してあるのが目に留まる。昭和15年発行の「隼人」という本に、汽車、バス、客馬車の料金表があると書かれているから、探せば出てくるかもしれない。また、「国分省営自動車」という本もあるらしい。省営バスのことが詳しいのは、そのおかげだろう。果たして、これらの文献も見てみたくなったが、現存するのだろうか。
昔、読んだ記憶のある枕崎市民による国鉄バス誘致の記録はまだ見つからない。
図書館で読んだ記憶があるので、あの本棚のどこかに今もきっと残っていると思うが、時間がかかりそうだ。
その内容は、昭和2年に坊津~枕崎~鹿児島などで運行開始した南鉄バス(南薩鉄道が枕崎に到達したのは昭和6年)の接客が悪く、人々は、指宿方面のバスの運行に際しては、当然進出が予想された南鉄バスを阻止するべく、国鉄バス(当時は省営バス)誘致を組織的に運動し、結果、それに成功したというもの。
昭和44(1969)年発行の枕崎市誌から引用
「昭和九年十二月、国有鉄道が指宿まで開通したとき、指宿・枕崎間に省営のバスを運行させることになり、昭和十年から営業を開始した。十一年三月鉄道が山川まで延長されたため、以後山川港・枕崎間の連絡に当たるようになったものである。」
国分線、加治木線の運行開始も昭和十年であるらしいので、県内における国鉄バスの始まりは、これら山川線、国分線と加治木線ということで間違いなさそうだ。
引き続き資料を調べる努力は続けていきたいと思う。
平成2(1990)年発行枕崎市誌より引用。
いろいろバスのことを知りたいと、図書館へ。
真っ先に手に取ったのは県史。各市町村誌が似たように構成になっているのは、参考にした書籍があるに違いないと思って、県史の存在にたどり着いた。
そして、枕崎市誌。国鉄バス山川線の運行開始にあたっては、枕崎市民の熱心な誘致活動があったからと読んだ記憶があって、それを確かめようと思って選んだが、その記述は見つからず。しかし、県史でもあまり触れられていない乗合自動車についての詳説があった。やはり、明治期に走っていたというのは、予想通り6人乗りのシボレーがほとんどだったらしい。
ここでも出てくる林田自動車。林田は、各地でバスを初めて走らせたというのは、事実らしい。
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