20年以上経った今でも思い出す、台風で缶詰めになった奄美旅。
9月2日木曜日夕方、北ふ頭から船に乗り、3日金曜日は朝から喜界島。午後の飛行機で奄美大島へ移動し、名瀬泊。
4日土曜日は古仁屋へ足を延ばし、できたばかりの朝戸車庫にも訪問。目的はほぼ達成し、長浜の焼肉店で同行者と乾杯をした。
この時点で、台風が接近してきているのがわかっていたので、翌日は予定を早めて空港へ向かうことに。
5日日曜日の空港行きの始発のバス。台風はまだ離れていたが、次第に近づいてくる予報だったので、リスク回避のために、便を繰り上げて帰ろうかと対策したつもりだった。
バスは出たし、始発の飛行機なら大丈夫と思ったのに、この日、飛行機は全便欠航。帰れなくなった。
台風の進路を見たら、奄美大島のずっと西側にいたはずだったのに、90度進路を変えて、こちらに近づいてきていた。
同じバスで名瀬に戻り、仕方ないので、民宿に再びの宿泊を交渉。
同行者も行先がないので、2人で1室に泊まることに。
鹿児島に帰るはずだった5日は、そのままどこに行くこともできず、民宿で台風情報を確認するのみ。
翌6日月曜日。台風が動かない。出勤日だが、行けない。電話で休みを申し出たが、いつ鹿児島へ帰れるかわからない。
民宿の食事が貧相になっていく。台風だし、朝食を頼んだら、宿泊費が3,000円なのに、朝食代が1,500円だという。
それだけお金を出すのに、出てきたのはビーフカレー。ひょっとしたらレトルトカレーだったかもしれない。
台風が来ると、食材が入手困難になる事情は分かっていたつもりだったが、これは痛い出費だった。民宿に泊まっていたほかの人も、同じメニューで、文句を言っている人はなかった。
翌7日火曜日。仕事を休んで3日目。なんとかして鹿児島に帰りたい。
やはり始発のバスに乗って、空港へ向かう。当時使っていた携帯電話予約で、一応予約は取れていたが、台風が北上して、今度は鹿児島側の天候不良で、いつ飛ぶかわからないという。
奄美空港に着いたら、ビルの外まで長蛇の列。こんなの初めて。
予約していた始発の便は欠航。ターミナルビルのベンチはすべて埋まり、階段の下のすき間に床に座って待った。
いつ、どうなるかわからないから、出かけるわけにはいかない。
空席待ちは、いつ呼ばれるかわからないし、とにかく、ほかの人と同じようにターミナルで待った。
空席待ちしながらも、携帯電話予約サービスを見ると空席が出ていることがわかったので、それをおさえて、ようやく運行再開最初の14時20分の便に乗れることに。ただ、同行者はNGで、佐賀まで帰らなければならない彼は、なんと伊丹行きの臨時便を選択、ひと足早く去って行った。
なんとか鹿児島に帰った私は、台風養生を一切妻に任せ、台風の中3歳児と2人きりで怖い思いをさせたことを責められた。
今でも、ことあるごとに「あれはひどい判断ミスだった」と言われる。
奄美滞在中、台風が発生したら、とにかく一刻も早く情報を収集し、帰る手段を確保すること。
予定を1日早めてでも帰るのは、この経験から得た教訓。
東京~西鹿児島間を結んでいた寝台特急はやぶさ。
廃止される前に、どこか鹿児島らしい景色が見える場所で撮っておこうと、高校生だった私は、線路沿いに自転車を走らせ、この場所を見つけた。
桜島が見えるのがここを選んだ理由だったが、なかなかくっきり見える日とタイミングが合わず、数回通ってようやく撮れたのがこの写真。
三脚を使って、構図をしっかり吟味した覚えがある。
先月、おれんじ食堂が似た時間に走ってくるとの情報があり、ほかの予定を調整して、どうにか時間を作った。
一発勝負で、撮影場所の下見にも行けなかったが、「はやぶさ」の時の記憶はあった。
かつて上った片廊下型のマンションは見つけられず、しかし、ビルは増えていた。
時間がないながら、それなりに写真は撮れたが、時間をかけてしっかり準備した写真のようにはうまくいかなかった。
撮り鉄はめったにしなくなったが、たまにはいいかな、と思えた。
路線バスや貸切バスのほかに、乗ろうと思えば乗れるバスがある。
献血バス。
それも、かなり凝った作りの特装車だったりするから、車内でついキョロキョロしてしまう。
そんな不審な私は、献血50回を超え、年に数回の献血は欠かさず「バスに乗って」きた。
しかし、バスシャーシは減り続け、改造できるベース車両が無くなった。
今後、どうするのだろうと思っていたら、ついに、トラックシャーシの献血バスにあたった。
トラックだから、献血をやめるということもなく、いつも通り。
車内は、乗ってしまえばバスと変わらない。
違うのは運転席のレイアウトくらいか。
献血は今回も無事に終わったが、このバスのエンジンルームの点検はどうするのか、謎は解決できないでいる。
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