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じいちゃんの随想記

2012年8月30日 (木)

ルース台風被災の記録

(ずいぶん久しぶりだが、台風シーズンでもあるし、祖父の書き残した随想記から転載する。当時、住まいは完成したばかりの市営真砂住宅。)

26年10月、あの恐ろしいルース台風がやってきた。
外は暴風雨で、雨戸を締め切ったままである。午後になって、ふと庭をのぞいてみると、水溜りの表面に泡が浮いて、なんとなく水面が淀んでいる。洗剤でも流したのかな、と思っていた。
しばらくして、もう一度庭の様子をみると、これは大変、庭の土台石のところまで水かさが増して、しかも陸地部の方向に流れている。
見るみるうちに水かさはどんどん増して、下駄や台所用品までが押し流されてくる。
これは津波だ。はじめて気がついて、あわてて子供達を押入れの上段に乗せ、たたみを上げてテーブルの上に重ねることにした。6畳と4畳半の2室であるが、6畳の畳を上げている間にも、海水はぐんぐん増して、4畳半の畳はもうぶくぶくと浮き上がっている。そしてまたたくまに、床上膝までの浸水となった。
お隣はどうしているのかと、庭まで出てみたが、胸まで水に浸かり、壁や窓枠につかまっても、身体ごと押し流されそうで、お隣まで行くことはできない。
夜半になって、ようやく引き潮になり、見るみるうちに、あたり一面は泥の海と化した。
明けて、住宅前の通りに出てみたら、側溝にからみ合った木材や板片の間から、女の人の手が一本、突き上げたようにのぞいている。誰方か潮水の中をどこかへ避難しようとして、側溝の深みにはまり、足をさらわれてこの悲惨な結果になったものと、心から冥福を祈ったのである。

2009年3月24日 (火)

祖父の死と「人生の岐路」最終回

父の急死によって、総督府からは、君の転職の理由が無くなったので手続きを中止した。すぐ帰任せよ。と官報電報が次々に飛び込んでくる。時局重大の折、一刻も空席にすることはできない。至急帰任せよ。と再三の督促である。
この信頼に応えて承諾せざるを得なかった。家族は市成の妻の実家に預け、4月中旬、空襲下の鹿児島をあとに単身帰任した。
私は、15年1月から軍需品である繊維作物、特用作物、わら工品等の生産、供出、配給など統制事務担当の主任をしていた。平時の3倍にも及ぶ事務量であった。(出征した他の主任の仕事も受けたからである。)そのために私は15年以降、他人をもって代え難い重要業務に従事している者として、朝鮮軍指令部の召集免除者名簿に登録されて、2度と再び兵隊に召集を受けることのない身分を保証されていた。
内地では終戦時まで充員召集が続き、学校でも教官が次々にかり出され、生徒も男女をとわず軍需工場に動員されて、国民皆兵そのままの姿であった。
私が赴任することに内定していた高鍋農学校もその例にもれず、しかも被爆校のひとつにもなっていた。
もしもあのまま私が高鍋農学校の教官になっていたら、現在の私がここに居るだろうか。きっとどこかの戦地で悲惨な憤死をとげていたにちがいない。
万が一生き延びていたとしても、現在の環境にはいない。別の形でどこかに生きていることと思う。
私は、父が死をもって、私の人生の岐路を選択してくれた、と今でも固く信じて疑わない。
運命の女神の采配とだけでは、どうしても片付けられない何かを強く感じているのである。

祖父の死と「人生の岐路」その5

くつろいで夕飯の食卓についたころ、電報!という声に姉が出てみると、「父危篤、すぐ帰れ」という、まさに青天の霹靂であった。翌朝姉も一緒に博多を出発、鹿屋の自宅に帰りついたのは3月31日の夜。静まり返った奥の間に、父のなきがらを前に。叔父と、初対面の父の茶飲み友達なる中年の女性が悄然と座っていた。
父は急性胃かいようで、2〜3日前突然吐血、排血がはじまり、空襲下に戸板に乗せられ、防空壕と居間とを出たり入ったりで、医師の診療もままならぬうち、昨日30日、72歳で亡き母のもとへ旅立ったそうである。
私の両親の死は、14年と20年で6年もの開きがあるのに、奇しくも二人共私が帰省する予定の日にあの世へ行っている。かねてから親子の縁に薄いと言われていた私の運勢が的中しているようで、何とも言えない悲しみに打ちひしがれた当時のことが今も目の前に浮かんでくる。

祖父の死と「人生の岐路」その4

それから数日たった20年3月のある日、上司に呼ばれた。
現在君の転職のことは総督府内部の手続きを終えて、内閣の決裁を仰ぐための主管省に書類送付してある。発令はもう時間の問題である。戦局は烈しくなるばかりだ、この際家族だけでも早めに帰国させたらどうか。君は内地出張で一時帰国し、辞令交付の時出府すればよろしい、と、まことにありがたい達示を受けたのである。
取り敢えず、家財道具半分を荷造りして、4歳の長男、2歳の次男(←私の父である)を連れて家族4人が京城を立ったのは20年3月27日であった。
途中空襲の危険をくぐり抜けて博多港(それまでは下関港であったが前日の空襲で博多港に変更されていた)に上陸し、中州に居る義兄の家に辿り着いたのが29日夕方であった。

祖父の死と「人生の岐路」その3

翌年12月、母の一周忌に帰り、1人残されていた父を京城に伴うことに話を決めて、家財その他一切の整理を済ませて、父は私と一緒に渡鮮したのである。
66歳の父は京城に来ても、隣近所に話し相手はなく、言葉も鹿児島弁のためうまくいかない。むっつり型の私とは対話も少ない。加えて2DKの借家住まいとあっては、父になじみそうな要素は何一つ見あたらないのである。2ヶ月位居てたまりかねたか、父はついに帰国すると言い出した。心ならずも老父の意に従って独住居の郷里に送り帰したのである。それから歳月は5年たった。
総督府に就職して13年目を迎えたが、この間、私は、上級管理職がすべて東京帝国大学卒業生によって独占されていることに気付いた。また地方の知事部局では、京都、九州帝大出身が上級管理職の座を占有している事実を知るようになり、この帝大万能の人脈をみて、ほとほと愛想もつきて憤まんやる方ない日々を過ごすようになっていた。
こうなれば、自ら途をひらくより他無し、と秘かに内地への転任又は転職を画策したのである。幸い宮崎県庁に勤めている高農時代の同級生が斡旋の労をとってくれて、宮崎県立高鍋農学校の教官に採用されることに内定した。早速このことを上司に報告し、承認を求めたところ、当時私は、軍需物資関係の重要任務を担当する主任の地位にあったので容易に聞き入れてもらえない。そこで窮余の一策、泣き落しの手を考えたのである。
内地には年老いた父が独り暮しの不自由な生活を送っている。京城に呼び寄せたこともあるが、こちらにはなじまず帰ってしまった。この上は、長男である私が帰国する以外に途がない。と、神妙に訴え続けたところ、ようやく承認の内諾を得ることができた。(実はこの頃、父は内縁の茶飲み友達を得て、結構楽しく暮らしていたのである。)

祖父の死と「人生の岐路」その2

昭和12年7月12日の支那事変勃発と同時に召集を受けて、平壌歩兵第七十七聯隊に入隊した。戦友の殆どは次々に第一線の戦場に送られて、戦死、負傷、病死と様々な悲しい結果に終わったが、私はふとしたことが(中隊の看板を書かされた)きっかけとなって、中隊事務室勤務となって第一線出陣の機会もなく、14年6月迄2年の留守部隊勤務だけで「同期兵では唯1人」召集解除となり無事職場に復帰したのである。
それは、黄海道産業部農村振興課(私の入隊中機構改革や転属があった)であった。その年の12月には総督府農林局農産課、元の古巣に復帰することに内定した。
思えば、昭和7年学校を出て、渡鮮して満7年。これまでに一度も帰郷していない。家からの便りには、母がいつも、学生服の時に別れた息子の成人姿を早く一目見たいと口癖のように言っておる。またお前の出征中は五社参りをして武運長久を祈願していた。今は一日も早く帰郷することを待ちわびている。と書かれていた。
今年こそは母のためにも帰らねば、と思い立って早めに12月21日京城発の乗車券を買ってその日を楽しみにしていた。
ところが当日になって思いもかけない「母死す。帰るか。返待つ」の電報が届いた。とるものもとりあえず帰郷し、23日に母の葬儀をすましたのであるが、この時の心情は決して筆舌につくせるものではない。母を焼きに帰った不孝者とかげ口をたたく親戚も数名いたほどである。
母はなぜ、私が帰る日を待たずに、その予定の日に旅立ったのか。神も仏もないものか!
母は8年振りに帰ってくる息子のために、お墓の清掃をしておこうと独りで墓参りに行き、その途中で心不全のため倒れて64歳の生涯を閉じた、とのことである。

2009年3月23日 (月)

祖父の死と「人生の岐路」その1

23日、祖父が亡くなった。以前、このブログの中でも触れたことがある、あの、祖父である。明治44年生まれ、97歳であった。
今日は、その祖父が残した随筆集の中から、「人生の岐路」と題された項を、転載したいと思う。長文であり、身内向けの文章で、分かりにくい表現もあるが、祖父の筆致そのままに、当時のことを思ってみるのもいいかなと思う。
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永い人生航路を振り返る時、いくつかの岐路に立たされ、その都度自らの決断と選択によって進行しているのであるが、ときに自分の意思と関係なく、天の配別、偶然の出来事によって、大きく進路を変えられていることがある。
大正14年の夏、強引な父の命により、私は泣く泣く鹿児島市にある写真館に入門願書を提出した。その回答を見ないまま、翌年3月、町会議員の説得で鹿屋農学校に入学願書を出して無事合格した。
一学期の中頃、町主催の春期清潔検査に備えて家中の大掃除をすることになった。玄関六畳間の畳を持ち上げたところ、敷居とのすき間に一枚の紙片が挟まっているのを見つけた。拾ってみると、それは一枚のハガキ、何と、昨年夏写真館から私宛にきた門生採用の通知ではないか!
家族の留守中に配達されたハガキが、何かの拍子で畳のすき間に入ってしまったのだろう。その時はただそれだけのことである。
今にして思えば、もし、あのハガキが、当の家人の手に渡っていたら、また、あのハガキが畳のすき間に入らなかったら、私の人生は全く別の道を歩いていたに違いない。そして今の私はどうなっていただろうか。運命のいたずらにゾッとするのである。

2007年1月12日 (金)

昔も今も・・・(笑)

 明治44年生まれ、現在95歳の祖父が今なお健在で、その祖父が喜寿の時に「自分史」を書いた。それを読んでいて、少し面白い記述があったので、転載したいと思う。本人の許可は、取っていない(笑)なお、一部仮名遣いなどを修正した。
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「肥料かぶれ」
 昭和4年5月頃、高農に入学してまもないあるとき、農業実習で終日水田に入って田植作業をした。
 時が経ってから、両手の指先から肘まで、両足の膝から下に発疹ができてかゆい。かいていると、ふくらんできて、しまいには水泡ができる。ヨードチンキや軟膏を塗っても効き目はなく、発疹は広がるばかり、中には化膿したり、ひどい所は皮膚が白っぽくただれて剥がされていく。
 橘通三丁目にある市立病院で看てもらったところ、肥料かぶれ(こえまけ)だということであった。それから両手両足に包帯を巻いて、隔日に病院通いが始まったのである。十日経っても一ヶ月すぎても一進一退病状に回復のきざしは見えない。
 その当時、市内バスは神宮前と大淀駅間を走っており、停留所はなく、客が手をあげるとバスガールの合図でどこでも停車する。乗り込むと切符をきる。降りるときもバスガールに合図すれば、どこでも停車するという仕組みで、乗車賃は一回15銭であった。お金に不自由な貧乏学生にとっては、このバス賃と病院の治療費は大きな痛手となった。そこで苦肉の策を考えて、これを実行することにした。
 学校は神宮の近くにあって、バスの発着は神宮前である。毎日この発着所に待機して、バスガールの一番きれいな可愛い娘に目標を定めて、彼女の乗車するバス以外はすべてやり過し、行きも帰りも常に彼女のバスを専用する。一ヶ月位続けてから、かねて用意した美辞麗句を並べたてたラブレターをそっと彼女に渡す。
 翌日バスに乗り込むと、彼女はほのかに顔を赤らめてそっと私を見る。私は目でいたわりの電波を送る。そして彼女は私の切符は切らない。
 以来彼女が会社を辞めるまで、私が三年生になるまでこのバスの無賃乗車(タダ乗り)は続いたのである。
 病院通いは1年位で終わったが、患部が完全に治癒するまでには、卒業の時まで続いた。
 その後、水田実習では何時も外回りを受け持つことにして、水田の泥沼には絶対に足を踏み入れないことにしていた。
 町を歩いていると、後方からきたバスがスーッと停車する。別にお客もいないのに……と見ると、彼女が乗っていてにっこり。私はさっとバスに乗り込む。
 たまに友人と連れ立って歩いているとき、このようにバスが停車することがある。友人の手前乗ることもならず、ノウを目で合図する。彼女もO.K.目で答えて、発車オーライ。バスはそのまま走り去って行く。
 まことに南国の春にふさわしい、のどかなこの風景ではある。
 昭和39年頃、突然同級生の同窓会をやろうと通知が舞い込んできた。卒業以来30年振りのことである。私は、たまたま東京出張のときで、欠席することになった。後日、会に集まった連中からの寄せ書きが送ってきた。見ると「バスガールを引っかけて、ただ乗りしていた奴がいたっけ」と書いた奴がいた。
 当時同級生の間では、私のただ乗りを知らない者はなく、またバス会社内でも、両手を包帯した高農生と云って、有名になっていたそうである。
 私共の青春時代は、プラトニックラブの尊重される時代で、男女が頬を接するなどもってのほか、手を取り合うことさえけがらわしい、不潔と思い込んでいた。
 たまに、彼女と神宮公園を散歩することがあっても、三尺離れて歩き、ベンチにかけるときは、左右両端に腰を降ろして満足していたものである。
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て、ちゃんとデートしてるし(笑)
じいちゃんの随想記……また機会があれば、紹介します。

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